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奥州市の歩み・歴史
奥州街道が南北を貫き、宿場町として栄えた。江戸時代には仙台伊達家の支藩、留守家の所領であった。県南の中核都市の1つで、商工業が盛んな地域として発展である。日本の天文学で重要な役割を担った緯度観測所(現・国立天文台水沢観測所)があることでも有名であり。同市の羽田地区では、江戸時代から続く伝統産業の鋳物が有名。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制が施行される。
    • 塩竃村と常盤村の一部が合併し、胆沢郡水沢町が成立。
    • 白山村の一部と秋成村の一部が合併し、胆沢郡姉帯村が成立。
    • 中野村、秋成村の一部、常盤村の一部が合併し、胆沢郡真城村が成立。
    • 宇佐村、満倉村、下河原村、常盤村の一部が合併し、胆沢郡佐倉河村が成立。
    • 黒石村が単独で村制施行し、江刺郡黒石村が成立。
    • 羽田村が単独で村制施行し、江刺郡羽田村が成立。
  • 1954年(昭和29年)4月1日 - 水沢町、姉帯村、真城村、佐倉河村、黒石村、羽田村が合併し、水沢市となる。
  • 1955年(昭和30年)7月1日 - 胆沢郡胆沢村の一部を編入する。
  • 2006年(平成18年)2月20日 - 水沢市と江刺市、胆沢郡前沢町、同郡胆沢町、同郡衣川村の2市2町1村が合併し、奥州市となる。

 

奥州市の発展に貢献した偉大な先人たち

 

≪幕末の先覚者≫

高野 長英 1804〜1850

(たかのちょうえい)

 幼名を悦三郎といい高野玄斎の養嗣子として育ち、17歳で江戸にのぼり吉田長叔に師事、蘭方医学を学ぶ。この時期に”長英”と名を改める。

 22歳で長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で従来の医学体系と異なる近代科学の偉大さを学び、西洋事情の見識を広め頭角をあらわし、日本の文化や風習について蘭語論文を多数著し、後にシーボルトより ”ドクトル” の称号を受ける。

 1839年幕府の『蛮社の獄』により、鎖国日本において開国論を唱えた長英は終身刑の身となるが逃走し、日本各地に潜行、日本の夜明けの為に生涯をささげるが、1850年幕府の捕方におそわれ、47歳で自害した。 

 

 

 

≪鉄道・放送の父≫ 

後藤 新平 1857〜1929

(ごとうしんぺい)

 1857年陸中国胆沢郡塩釜村(現在の水沢区)に生まれる。新平の家は高野長英の分家筋にあたり、後述する斉藤實とは竹馬の友であり、胆沢県庁の給仕どうしである。

 15歳で出郷し18歳で福島県須賀川医学校に学び25歳で愛知病院長兼学校長となる。在職中に刺客に襲われた板垣退助を治療した事が縁で後に政界に足を踏み入れる。

 内務省勤務を経て外務大臣、満鉄総裁、東京市長、内務大臣兼帝都復興院総裁として関東大震災後の復興に尽くし ”大風呂敷” の異名をとった。また東京放送局(現NHK)の初代総裁となり、マイクを通じて全国放送をし、”鉄道・放送の父” といわれている。享年73歳

 

 

 

≪孤高の政治家≫

斉藤  實 1858〜1936

(さいとうまこと)

 1858年陸中国胆沢郡塩釜村(現在の水沢区)に生まれる。明治5年に上京後、海軍に入隊。アメリカ留学を経て要職を歴任し、”陸の長州、海の薩摩”といわれる中で明治39年海軍大臣に就任。以後8年間海相を務める。

 大正8年、第3代朝鮮総督に就任。これまでの力の統治から文化統治へと施政の転換をおこなうなどして通算10年にわたり民生の安定に努めた。

 昭和7年、5,15事件で倒れた犬養毅の後を受けて第31代総理大臣に就任。 ”自力更生” をモットーに多難な昭和恐慌の復興に尽くしたが、昭和11年内大臣在任中に2.26事件の凶弾に倒れ、79歳の生涯を閉じた。

 

 

 

 

留守宗利 (伊達宗利) 

(るすむねとし)

 初代水沢城主。伊達政宗の叔父にあたる政景を父にもち、朝鮮の役で政宗の謀将として出陣し、その功績により伊達氏の称号が与えられた。以後、伊達藩領の北辺鎮護の任にあたり、数々の治績を残した。

 現在岩手県奥州市水沢にある日高神社には宗利の銅像が建てられている。

 

 

 

木村栄

(きむらひさし)

 緯度観測所(現国立天文台水沢観測センター)初代所長。明治35年1902年(明治35年)に緯度変化のに観測上の未知数 ”Z項” を発見。現在の奥州市にもその功績を称え、名称に ”Z” を含む公共施設等が多数建築されている。